戊辰戦争について

 
最後の将軍徳川慶喜はこう考えました。
「大政奉還して良い子になったら明治政府になっても政治家として活躍させてもらえるだろう!」
 ところがどっこい、薩摩と長州は天皇を操って徳川家の土地や身分を剥奪するのです。
「そんなひどい話があるか!」と怒った慶喜は戦争をおこしました。
戦争の舞台は鳥羽伏見(京都)に始まり上野(東京)→ 北越・会津(新潟・福島)→箱館(北海道)と移ります。
これら一連の戦争を「戊辰戦争」と呼びます。
 
主に会津藩と新選組のメンバーが中心になって薩摩長州と戦いました。
しかし、鳥羽伏見の戦いの途中、肝心の慶喜は江戸へ逃げ帰ってしまいます。
その後、勝海舟が幕府軍を代表して江戸城を明渡す話を決めてしまいました。
これを不満に思った連中が彰義隊を編成し上野戦争をおこすわけです。
しかし、そこでも幕府軍は敗れます。
近藤勇はこの頃、戦意をなくし官軍に出頭し斬首されます。
  ちりぢりになった幕府軍は北越の長岡藩を頼ります。 しかし、ここでも敗れてしまい、連敗記録を伸ばします。そこで、いよいよ会津が舞台になります。
会津藩の藩祖である保科正之は、「オラの子孫は徳川家の見方サすろ。これを守んねえヤツはオラの子孫じゃねぞ!」と言って死にました。
この家訓を遵守して、会津藩主松平容保は徳川家のために最後まで戦うと決心しました。
年寄りや女(娘子軍)、子供(白虎隊)までひっぱり出して戦ったんですが、結局負けてしまいました。
 
その後土方歳三は箱館まで行って戦い続けますが結局ここで銃弾に倒れ、戊辰戦争は終わります。
いまだに会津では、高齢者を中心として長州を恨む気持ちが残っていると聞きます。
会津市長選では萩市との和解が争点の一つになっているとか。
数年前に長州側から和解が打診された時も、会津側は「時期尚早」と態度を硬化させたままだったそうです。 また、昨年仲直りに向けて、福島県内の歴史愛好家達が萩市を訪れる、という動きもありました。
130年経った今も、会津では戊辰戦争が終わっていないのかもしれませんね。(ちなみに薩摩への恨みは、西南戦争で清算しているそうです)

→戻る