真田騒動


恩田木工の像

松代藩の財政は3代藩主真田幸道の時代より徐々に困窮し、民親が家督を相続した頃にはかなりの財政難に陥っていた。
寛保2年(1742年)には松代城下を襲う大水害に見舞われ、復旧のため幕府より1万両の借財を受けた。
そこで、5代藩主真田信安は小姓より登用した原八郎五郎を家老に抜擢し藩政改革に当たらせた。 原は享保14年(1729年)より始まっていた家臣の知行・俸禄の半知借上を踏襲し、更に、領民より翌年・翌々年分の年貢を前納させるという藩政改革を実行した。
しかしこれが家臣の反発を招き、延享元年(1744年)足軽によるストライキという全国的にも極めて稀な事態となった。
宝暦元年(1751年)には原八郎五郎を罷免し、代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門を勝手方として召し抱え財政再建に当たらせた。しかし、性急な改革は農民の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆が起こった。田村は同年に失脚した。
原や田村の時代、贈賄を行った者には納税が目こぼしされたり、商人からの寄付の一部を横領するなどの汚職が横行した。彼らはこれにより失脚したのだが、汚職の横行により藩内の風紀は乱れていた。
宝暦2年(1752年)信安の死により藩主となった真田幸弘により、宝暦7年(1757年)民親は「勝手方御用兼帯」に任ぜられ藩政の改革を任された。
質素倹約を励行し、贈収賄を禁止、不公正な民政の防止など前藩主時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組んだ。また、宝暦8年(1758年)藩校「文学館」を開き文武の鍛錬を奨励した。
民親の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・領民の意識を改革した。

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恩田木工民親の財政改革がなぜ成功したのか?
それは、藩祖信之が藩政の理念とした「領民と家臣の幸せ」に立ち返ったからだと思います。
領民・家臣の幸せと、松代藩の未来の為に、自らを厳しく律して奮闘する木工が、物語の最後に、「働こうな」と、義弟の主米に語りかける部分は、感動的で清清しい余韻を残してくれました。
いつの時代でも、どんな世界でも、上に立つ者は、信之の理念を忘れてはいけませんね。
でも、言うは易し。実際には難しいことです。
真田家の名君・名臣達には、色々と学ぶことが多いですね。
(Miki記)
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